内海哲也
後輩の良きお手本

10年ぶりのリーグ優勝を成し遂げた2018年の12月、チームにビッグ・ニュースが届いた。
『内海哲也投手獲得』の報せだった。2011年、12年と2年連続でセ・リーグ最多勝を挙げ、読売ジャイアンツのエースとしてチームを日本一に導いた大投手が、ライオンズの一員になったのである。選手たちも、ファンも、ライオンズにかかわる全ての人が大歓迎した。
届いた獲得可能選手のリストを見た瞬間、即決だったことを当時の渡辺久信現ゼネラルマネージャー(GM)は明かした。「長いことジャイアンツの主力としてやってきていましたし、実際に数字もしっかりと残してきている。一番は、今季(2018年シーズン)のボールのキレやコントロールなどを見た上で。一方で、うちは本当に経験の浅いピッチャーがほとんどなので、リーダーシップのとれる内海投手は最適の人材だと思いました。ぜひ、いろいろな経験値を若手投手陣にしっかりと伝えて欲しい」。貴重な左腕の即戦力として、また、後輩の良き手本として、大いなる期待が寄せられた。
その期待に、内海投手はしっかりと応えた。加入一年目の2019年は、開幕前に発症した左前腕の故障が影響し、キャリア初の一軍登板なしに終わったが、それでも、ファームでの日常でも、日々誰よりも早く球場に入り、入念にストレッチや体のケアをして練習や試合に臨む姿、練習メニューも抜くことなくきっちりとこなす姿勢は、年齢やキャリアを問わず、多くの選手の意識を高めた。「内海さんほどの超一流選手が、これほどまでに練習前の準備を大切にしている。ということは、自分はそれ以上に練習への意識を高め、練習量をこなさないと、内海さんレベルの選手になれない」。特に10代、20代前半の若い選手の今後のプロ野球人生に好影響を与えたことは間違いない。
2020年に実戦に復帰してからも、その一挙手一投足に人間性が現れていた。ファームでの登板が多かったが、通常、ベテラン投手は先発して降板した後はロッカーへと戻り、そのままあがりとなる投手がほとんどだが、内海投手は若手同様、再びグラウンドに戻り、試合後のグラウンドでのミーティングにもきちんと参加した。どんなに実績を積み、有名になっても、決して驕らず常に謙虚さを忘れない。こうした姿勢に、誰もが信頼と尊敬の念を抱いたことは言うまでもない。
誰もが認める人間性
内海投手の人間性の素晴らしさは、ジャイアンツ時代から有名だった。自身の経験から、厳しい上下関係や派閥によってチームがバラバラにならないようにと、環境改善に積極的に着手。自ら先輩と後輩の橋渡し役となり、距離感を縮めた。さらに、親友関係にあったという亀井善行氏(現巨人外野守備兼走塁コーチ)と協力し、投手と野手の垣根もなくしてチーム全体に一体感をもたらした。オフには若手投手を自主トレに誘い、寝食をともにするなかでプロ野球選手として、また一人の社会人として大事なことを徹底的に伝授した。ライオンズに来てからも、同じ2019年に入団したドラフト2位ルーキー・渡邉勇太朗投手のポテンシャルを見込み、自主トレにも誘うなど公私共にさまざまな教えを説いてきた。その中で、特に内海投手が最も口を酸っぱく言い続けているというのが、『謙虚さ』だ。
2021年、渡邉投手は一軍デビューを果たし4勝を挙げた。その初登板後、間もなくのできごとだった。選手寮において、日頃は年上の選手が止めている場所に、すぐに出る予定だった渡邉投手は一瞬だけ車を止めていた。それを、早朝から練習に来ていた内海投手が目撃した。【そういうところから、誰が見ているかわからないから気をつけろ】渡邉投手にすぐにLINEをした。「めちゃくちゃ細かくて、どうでもいいことですが、見ている人が見たら『勇太朗、やっぱり一軍に行って変わったな』って思うものなんです。ただ手前に車を止めただけのことなんですよ。でも、話って大きくなるので。たった30〜40m我慢して歩けば、誰にも何も言われない。ピュアな渡邉勇太朗のままなのに、その距離をサボることによって渡邉勇太朗という選手の評価がダダ下がりするんですよ。プロはそういう世界。妬み、僻みなどももちろんあるし、そういうところにつけ込んで、「ああでもない、こうでもない」という選手を僕はいっぱい見てきているので、そういう細部もめちゃくちゃ大事やで、ということは常に言っています(内海投手)」。渡邉投手にとって、今でも深く心に残っている金言だ。
もう1つ、内海投手といえば、2009年から開始した、児童養護施設の児童に毎年ランドセルを寄付する「内海哲也ランドセル基金」でも知られる。きっかけは、その年に長男が誕生したことだった。「息子が生まれましたと球団の人に報告したら、ランドセルは国から補助金が出なくて、養護施設の子たちがすごく困っているという話を聞いて。自分に息子が生まれて、こどもってめちゃくちゃ可愛いなと実感していたところで、そんなこどもに虐待とか育児放棄とかありえへんと思って、僕がやれることをやりたいなと思いました」。開始した当初は奪三振数だったが、2013年からはイニング数へと変更した。ライオンズに来てからは、イースタン・リーグでの投球回数も加えられ、今ではプレゼントしたランドセルの数は1500個を超えている。こうした社会貢献の面でも、家族思いでも知られる内海投手らしさが溢れていた。
球界を代表する左腕

一方、投手としての功績も輝かしいものだった。自己最速148キロのストレートと多彩な変化球を織りまぜ、プロ19年間で135勝を挙げた。キャリア前半は、直球とチェンジアップ(のちにスクリューと呼ぶようになった)、スライダーを武器に三振の山を築き、2007年には奪三振王のタイトルを獲得。2011年、12年には2連続で最多勝利投手に輝き、12年の日本シリーズではMVPも受賞するなど、『巨人のエース』としてその名を馳せた。キャリア後半は、変化球を主体に打たせてアウトを取るピッチングスタイルへと移行していき、コツコツと勝利を積み重ねていった。2019年、初のパ・リーグでの戦いが決まったことをきっかけに今一度取り組み直したカットボールが、今季ついに自在に操れる、真の意味での“持ち球”となった。「直球、スライダー、チェンジアップ、フォークにカットがあるだけで、球速の幅が広がった」。引退を意識してもなお、最後の最後まで進化を果たしてみせた姿こそ、内海投手のプロ意識の象徴と言えよう。
今季は、これまでの現役投手に加え、初めて『投手コーチ』を兼任してのシーズンとなった。もともと、後輩投手に対して惜しみなく助言をおくっていたが、『コーチ』という肩書きがついたことで、より一層アドバイスがしやすくなった。そんな中で、エース的存在を担う高橋光成投手も貴重な学びを得たという。「『自分のスタイルを大事に』と言っていただきました。毎試合前にはミーティングが行われ、(相手打者の)攻略法を立てますが、もちろんそれも大事ですが、それを踏まえた上で、時にはいざという場面では自分のスタイルを貫くことも必要だと。要は、内海さんは自分を知っているということだと思います。僕も自分をもっと知って、内海さんのようにもっと自分のいいところを出せる投手になりたいです」。ライオンズの真のエースになるべく成長を続ける高橋光成投手にとって、巨人のエースを担った内海投手の言葉はこの先も強く響いていくに違いない。
19年の長いプロキャリアの中で、内海投手がライオンズで過ごしたのは最後の4年間だった。だが、そのなかで、2004年からコツコツと積み上げてきた通算1500奪三振、通算2000投球回という節目の大記録を、『西武ライオンズ・内海哲也』として球史に名が刻まれたことを、球団もファンも、心の底から誇らしく思っている。そして、ライオンズに残してくれた勝利への貢献と、数えきれないほどの好影響を決して忘れない。「やりきりました」と完全燃焼で幕を閉じられる現役生活、本当にお疲れさまでした。そして、ありがとうございました。
(了)
文・上岡真里江(Marie KAMIOKA)

